ハーレム国際映画祭

ハーレム国際映画祭は、ニューヨークのハーレムで毎年開催される映画祭です。 2005年に創設されました。 最優秀映画賞(作品賞)や、最優秀ドキュメンタリーなどのカテゴリー(部門)があります。 主に、日本では公開されないマイナーな独立系映画が出品されています。 黒人(アフリカ系)の監督・製作者による作品が多いです。 歴代の受賞作を紹介します。

<作品賞>
受賞作 監督
2023 「Blow Up My Life」
(ブロウ・アップ・マイ・ライフ)

ライアン・ディッキー、アビゲール・ホールトン
(Julianne Fox、Abigail Horton)
2022 「Never Better」
(ネバー・ベター)

ジュリアン・フォックス
(Julianne Fox)
2021 Voodoo Macbeth

 予告編(動画)→
Dagmawi Abebe
2020 Haingosoa

 予告編(動画)→
エドゥアール・ジョボー
(Édouard Joubeaud)
2019 Wheels

 監督の解説(動画)→
ポール・スタークマン
(Paul Starkman)
2018 The Best of All Worlds

 予告編(動画)→
Adrian Goiginger
2017 Krotoa ロバータ・デュラント
(Roberta Durrant)
2016 Children of the Mountain プリシラ・アナニー
(Priscilla Anany)
2015 America is Still the Place パトリック・ギルス
(Patrick Gilles)
2014 Kamkam(Greed) ジョエル・C・ラマンガン
(Joel Lamangan)
2013 CLUTTER ダイアン・クレスポ
(Diane Crespo)
2012 True Bromance Sebastian Doggart
2011 受賞なし
2010 Anchor Baby Lonzo Nzekwe
2009 不明
2008 不明
2007 August the First Lanre Olabisi
2006 Dead Man's Cards ジェームス・マーカンド
(James Marquand)

NYハーレム(米国)

(1987年3月28日、朝日新聞)

おれたちの魂の故郷「アポロ劇場」

照明の落ちた劇場は底冷えがする。客席に道化が1人、無人の舞台を見つめている。

サンドマン・シムズ氏(69)は半世紀の芸歴をもつタップダンサーである。うち30年は、ここハーレムのアポロ劇場で生きてきた。スポットライトを浴びた名ダンサーとして。そしていまは、舞台にしがみつく素人出演者を退場させる役目のピエロとして。

開演には、まだ間がある。シムズ氏は、ハーレムの昔と今を語り始めた。

× × ×

マンハッタン島の北部一帯がハーレムだ。街を東西に横切る125丁目の大通りには、アポロ劇場をはじめ、装いをこらした商店がにぎわいを見せている。おもちゃ屋の店先に並んでいるキャベツ人形は、みんな肌が黒い。住民の9割が黒人である。

20世紀初め、鉄道の開通を見込んで高級住宅街が建設された。だが、開通の遅れに不況が重なり地価が急落、ダウンタウンや南部を追われた黒人たちが移り住んできた。

1920年代から1930年代にかけ、黒人文化が花開く。ハーレム・ルネサンスである。その殿堂がアポロだった。

シムズ氏は、つい昨日のことのように昔を語る。ビリー・ホリディの衝撃的なデビュー。「世界で1番タフな聴衆」から卵をぶつけられたエラ・フィッツジェラルド。

こうした音楽名鑑の巨人たちは劇場の並びのレストランで食事ができなかった。白人専用だったからだ。「みんな、開演前になると、裏に来るワゴンからポテトを買って食ったものさ。そして、みんな、この街を捨てた」

戦後、ハーレムはゲットーとなる。1960年代、黒人暴動が荒れた。劇場が閉鎖に追い込まれたのは1978年。それでも集まってくる街の年寄りたちは、出し物の看板が空っぽなのを見ては泣いたという。

その看板にいま、売れっ子歌手の名が入る。1986年の本格的なアポロ再開を、シムズ氏は「ハーレム再興のシンボル」と呼んだ。

このところ、ハーレムは空前の投資ラッシュにわいている。1982年に6000ドルだった古アパートが4回転売されるうちに60万ドルにはね上がった。

市当局は税金未納の大家からの接収によって、いまやハーレムのビルの7割を所有しているが、低家賃の高層アパートを次々に建てている。第3世界の商業の首都に、との触れ込みで、ワールド・トレードセンターの青写真も出来上がった。

その一方で、昔からの住民が、新しいビル建設や家賃の値上げで追い立てられている。投機目的のにわか大家は維持費を出ししぶり、スラム化がさらに進む区域もある。夜逃げする黒人に代わって、ボヘミアンを気取る白人や、韓国などアジア系の人々が新たな住民に加わった。

大通りから1ブロック裏手に入れば、ハーレムの顔は一変する。「ドラッグ通り」と呼ばれる116丁目には、一目でそれと分かる麻薬の密売人たちが、うつろな視線を宙に漂わせている。

「それでも殺しやレイプはずいぶん減った」と、所轄の28分署の警部はいった。「この街が、これ以上悪くなるのに、みんな飽き飽きしたんだろう」

暗い歴史と明るい未来が、この街には同居している。

× × ×

高層アパートの影が街を覆うころ、劇場のネオンに灯が入った。今夜はアマチュアが出演する。シムズ氏が現役のころ、舞台は黒人、客席は白人と決まっていた。その壁は消え、世界中の音楽が、ハーレムの夜に響く。

「何もかもが変わっちまったが、このアポロがおれたち黒人の魂であることは変わらないよ」と、出番を待つ舞台裏でシムズ氏はいった。そして、突然、靴音高く踊り始めた。

道化姿の老優の踏むタップは、かろやかで、たくましく、ハーレム再生のつち音と聞こえた。

NYハーレムが舞台の映画(1)~「コットンクラブ」(1984年)

(1987年9月4日、読売新聞)

ハーレム142丁目とレノックス通りが交わるレノックス644番地。かつてコットンクラブがあった場所をたずねた私は、しばらく声もなく立ち尽くしていた。付近は高層アパートの団地に一変し、当時をしのばせる石造りの家並みは大方、廃屋寸前のさびれよう。居酒屋で、ハーレム育ちで雑貨屋だという中年の男が話しかけてきた。

「おふくろが、コットンクラブのコーラスガールをやっていた。68歳で今も元気だが、昔話をさせると『とにかく豪勢なものだった』が決まり文句でね。今は? ご覧の通り。住めば天国、とはいうものの、やはりさびしいね、犯罪と麻薬、貧乏の3拍子だもの」と。

1984年に製作されたこの映画は、コットンクラブを舞台にしたマフィアたちの抗争と、しがないピアノ弾きの男ディキシーと、ギャングの愛人ベラの恋物語を描いた。その背後に、差別に闘いながら才能をみがき、競い合う黒人ミュージシャンたちが登場する。

コットンクラブでコーラスガールをやったもう1人の女性エドナ・メー・ロビンソンをたずね当てた。

「15の時、舞台に立った。ポニーと呼ばれる黒人少女組のコーラスガールだった。そのころはすでにブロードウェイ48丁目に移った後でした(コットンクラブは1936年に移転)。靴の底が沈んでしまいそうな真っ赤なじゅうたんと、廊下の壁が総カガミ張りだったのが、今でもはっきり思い出せますよ」

マイアミ生まれのエドナ一家は12の時ハーレムに移り住んだ。今でいえばステージ・ママの母親は、黒人の美少女が世に出るためには、コットンクラブのステージに上がるのが早道と考えた。親心だった。

「豪勢なシャンデリアの下で、夜ごと、紳士淑女がくり込んできては、シャンパンを景気よく抜き、朝の3時までどんちゃん騒ぎ。みんなお金持ちで、エレガントで。黒人は客席には入れなかったけど、スターを夢見て、うきうきするような毎日でした」

当時、そこは黒人ミュージシャンの登竜門だった。デューク・エリントン、キャブ・キャロウェー、レナ・ホーンといった有名な芸人は皆コットンクラブでスターの座をつかんだ。15を超すナイトクラブが豪華さを競い、1930年代以降の「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる黄金時代の舞台となる。

2年後、彼女は、当時全米のファンを熱狂させたボクシング・ミドル級世界チャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンと出会い、結婚。17歳だった。ピンクのキャデラックで一流ナイトクラブに乗りつけるシュガー・レイと美ぼうの妻エドナの派手な生活は社交界の人気を独占した。彼女にとって、コットンクラブは青春のすべてだった。

しかし、映画「コットンクラブ」に対する黒人の評価は厳しい。

時代考証でコッポラ監督に協力した元黒人モデル、ノーマ・ジーンさんは「失敗作」と断言した。「コッポラさんは多分、黒人を主題にした作品では受けないと考えたのでしょう。それで、実際にはありもしないギャング映画にしてしまった。私たち黒人は、映画が、黒人芸術の一大モニュメントになると聞かされ、協力しました。数多くのタップダンサーやジャズシンガーが何か月もリハーサルを繰り返し出演した。でもフタを開けてみたら、そのすべてがカットされていました。映画を見てくやし涙が流れてしかたなかった」。

黒人ゲットーと化したハーレムも、この2、3年、125丁目を中心に商店街や新築マンションの再開発が始まり、一見ヤッピー風の若い白人や観光客が、こわいもの見たさに探訪にくる姿も目立つ。しかし、ハーレムの黄金時代は戻るのか。

「近ごろの若いもんは何をやってるんでしょう。1960年代の公民権闘争はすっかり退潮してしまい、ハーレムも白人たちに買い占められて。今に黒人はハーレムを追い出されてしまいますよ。もう1度闘いをやり直さなければ」。古き良き時代のノスタルジアに浸っていたエドナ・メーの語気が次第に険しくなるのがわかった。

◇コットンクラブ(米、1984年)

監督フランシス・フォード・コッポラ、出演リチャード・ギア、ダイアン・レイン、グレゴリー・ハインズ。

禁酒法時代。即興ジャズのピアノ兼コルネット奏者ディキシー(ギア)は、ギャングのボスの命を救ったのがきっかけで兄弟分となり、映画界に入る。恋人の歌手ベラ(レイン)にブロードウェイのナイトクラブを経営させるまでに成功するが、その生き方は終始野望と愛に胸をふくらませ、“危ない橋を渡り続ける”ものだった。「白人客のために黒人のジャズを聴かせる」豪華なナイトスポット、コットンクラブを舞台に、コッポラはもう1つのゴッドファーザーともいうべき“時代の流れ”の中の人間ドラマを描いた。黒人タップダンサー、サンドマン(ハインズ)を通じて、人種差別の壁、アメリカ芸能史における黒人アーチストの重要さも浮き彫りに。